定常的に人との会話が苦しいので,休日が暇なときは絵を見に行くことが多い.

という話を人にすると「絵ってどうやって見てんの?」という会話になることが多い. 絵をどのように楽しめばよいのか,という趣旨で会話を広げてくれているのだと思う.


普通の会話でそんな返しはしないが,絵に鑑賞法は無い. 別に絵を理解した気になっているわけではないけど,絵に対峙するときは,一枚の絵と,その前に立つ自分だけが存在していて,自分がその絵をどう受け取るかがすべてになる.


『鑑賞』と一般に言葉にすると,畳の上で茶を啜りながら骨董を舐るようなそんな雰囲気を感じさせるが,本来人が作ったものに対峙するときの態度はそうではないと思う. 絵は常に自分たちの生活の秩序を脅かす. 壁にかかって静止しているのではなく,自分たちの内部を崩しにかかる. ほとんど倫理と言っていい確信ではあるが,絵は体験に近い. 自分たちはゴッホを刺し違えるつもりで絵を見る必要がある(到底無理だけども)


美術館の多くは,入り口で展示の概要を説明し,小説のように各パートで例えば画家の生い立ちを説明し,絵には丁寧にキャプションがついている. 私たちは入り口から入って絵を一瞥し,キャプションをじっくり読んだあとに再び絵を見渡したあとに頷いて次へ移る. これはこれでいいのだけれども,この一連の流れでは,名画であることの確認しかできない. 見返すつもりでスマホで写真を撮ってもいいけれど,その絵が見返されることはない.

情報そのものは悪くなく,あくまで順番の問題だと考えている. つまり,「これはゴッホの晩年の作で...」と知ってから見る渦巻と, 何も知らずに目の前に立って,なぜこの糸杉は燃えているのかと立ちすくんでから知る渦巻とでは,自分たちの中で起こる事情が変わってくる. 絵を自分たちの中で咀嚼してから情報を入手すべきなのであり,理想として美術館は二周されるべきだと考えている.


雪舟でもいいけど,長谷川等伯の『松林図屏風』はもっともすばらしい日本画のうちの一つだと思う.

複数の松林が立っている. 最初この絵の白い部分を見たときに,いわゆる余白と思った. これは正しい解釈ではないと思う. 松はすべて等しい濃度で書かれていない. 奥行きの問題ではない. つまり,霧が描かれていると解釈するのがよい. 大層なことは言っていないが,つまりこの絵で描かれているのは松を飲み込もうとする霧と,松と,その影である. 松は人間,あるいは何かしらの存在だといってよい. 何かしらの存在は影をもつ. 影は非存在であり,自分たち(松)が生きることによって非存在として(カッコつけてサルトル風に言うならば)存在させられる(哲学入門). 等伯が周囲の人間を失い,虚しさ,冥府,あるいは自分の死を予感するとき,松とその影浮かび上がる. 自分たちは死を自覚したときにはじめて生を知る. 死は生のすぐ下にあり,自分たちはそこから身体をよじらすことで生を実感する. 生きることは身体を曲げて影から遠ざかることであり, 死ぬことは霧に呑まれて風にそよぎながら影と一体になることである.

みたいな,それっぽいことを考えて悦に浸ったのちに,この絵の背景を調べる. 調べてみると,等伯が息子や知人を亡くした後に描かれたものらしい. そう考えると自分の感想は方向性は合っていたんだな,とわかる. 一方で死に対する向き合い方は少し違っていて,等伯はあくまで乗り越えるために描いていたのだと分かる.


TBD